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diarynuskin

なれないなら

自分はなぜ、ブログを更新し続けるのか、考えた。
書くことが趣味であるから曾璧山中學
公開せずに溜めておくと、書くときのモチベーションアップにつながらない。
一人でも読んでくださる方がいる、と思って(アタマの隅っこに)書くと、なんだか熱が入る。
とは思いつつ、書く、はじめのあたりは、ちょっとだけパワーがいるのだが、
途中で自分のためだけの追究になり、最後は、自分だけを救っているのだけれど。
なので、自己顕示欲とは少し違う。

強いて言えば、自分を知って欲しい、理解して欲しい、などという無意識に甘い考えもあるのかも。
少なくとも、良く思われたい、良い人に思われたい、とは、考えていない。
あくまでも、自分を救うための作業である。

他のある方がご推薦されているエッセーを読ませていただくと、
とても優しい、でも、芯はしっかり、奥深い、理想的なものだった。
かつん、かつん、ごつんごつん、と、あちこちに、ひっかかったり、キーンと金属音が響いたり、
突然、地雷を踏んだように毒気に当てられたり、そんなストレスのない、安心できる、おおらかな、ゆったりとした文章。
人間の幅、こころの広さを感じさせるような。

おそらくわたしは、一生無理だろう。
わたしは、「Why?]の姿勢。
なぜ、そうなの? なぜ、そうしなければいけないの? なぜ、そうと決め付けるの?
子どもみたいなものだ。

その理想的なエッセーは、大きな、何もかもを優しく包んでくれるお母さんのようなテイスト。
わたしとは、まさに正反対。
自分も、こういう人、性格、人格ならいいだろうなあ・・・と感じる。


ところが・・・
学生の時、そういうタイプの生徒とは、仲良しにはなれなかった。
嫌いではないが、接点がなかった。
つまり、わたしは、優良な理想的な子どもではなかったからだ。

上記のエッセーの人も、一朝一夕に、大きな器の安定した性格を形成されたわけではないだろう。
努力して成長された結果だろう。
わたしは、どんなに努力しても、ぜったいに優等生にはなれない。
無意識のうちに、文章の隅々にそれが出ていることだろう。

・・・

なれないなら、それを目指して努力すればいい。
これが、わたしのモットーである。
が、今回ばかりは、無理。
逆の方向であるように感じる。
それを目指すと、自分自身が壊れる。
なので、そんなストレスを感じるようなことには挑戦しない。
別個のものとして、別に存在する(正しい、優良な)価値として、認めるが、自分は、自分であると言い切る方向。

・・・

なんでも、あるがままに、肯定するのは理想だがnu skin 如新
わたしのスタンスは、肯定するまでにたどりつく、そのプロセスが重要と捉える。
「あら、あなた、こうすればいいじゃない?」
なのは、重々わかっているが、できないから苦しむのである。

なにも考えずに、無意識に肯定している人を見ると、羨ましくさえもある。
「あら、なぜ、そうしないの?」
と、その人は悪意のない輝く笑顔で語りかける。
「しようと思っても、できないんです・・・」
そういう人が世の中にいることをその人に知って欲しい。

まあ、知って、なにになる?ってことだが。
知って、その人にストレスが溜まるだけなら、知らないほうがいいのかも。
ストレスを押し付けあっても、なにも生まれない。
が、一方だけがストレスを抱え、一方は、まるでどこ吹く風?
しかし、ストレスの発散方法を誤った方向に持っていくのは良くない。
最善の方法で、相互理解につながれば理想的。それが、また難しいのだが。
自分で解決するしかないのか。

・・・

自分のことを理解してほしい、認めてほしい、
そう願うのは、ごく自然のことだと、心理学だかなんだかの本に書いてあった。
人間の三大欲求(食欲、睡眠欲、性欲)が満たされると、その次の欲求は段階的に高度になる。
それが、認められたい、という欲求らしい。
学者さんが、研究を重ねて、そう書いているのだから、そう大きく間違っていないと感じる。

ただ、認められたい内容や、質、方法などが常識を逸脱すると、疎外されたり、犯罪につながったり、人間失格になったりする。


なにも感じない、ふわふわした、こころの純粋な人に、なりたい。
が、そんなに無防備にしていると、あっという間に、敵に攻め込まれ、「あほやなあ」ということになる。
無防備は、無知と同じ。
最低限度は、セキュリティ・システムを導入しなければ、個人の諸々を守れない。

・・・

・・・で、「ブログで自分を発信したいの?」と、ある日、痛いところをリアル人に突かれたわたしは、
自分のことが認められなかった、と感じた。
なぜ、記事をアップせずに(非公開にしたままで)、自分の中で収めておかないのか。
モチベーションを上げるため、と理由を書いてみたが、どうも納得できない、すっきりしない。
確かに、動機の大きなひとつではある。
が、全てでもないような気がしている。
なぜなら、そのリアル人の言葉の響きには、ブログアップを肯定しないニュアンスを感じ取ったからだ。

なぜ、あの人に否定されなければいけないのか?
ここでまたわたしの、一人相撲が始まる。

そりゃあ、嗜好や価値観は人の数だけある如新香港
あの人の嗜好に合わなかったからといって、あの人に合わせる必要はない。
あの人が、ネット世界が嫌いなだけである。
嫌いなものを、嫌いと言ってなにが悪い?

「わたし、納豆、嫌いなんです」
「なにぃ? あんな美味しい、ネバネバしたものが、なぜ嫌いなんだ!!???」

みたいなものか。
人の嗜好にケチをつけるのも良くない。
だが、ケチをつけられたからって、ムキになるのも、もっと良くない。
同じレベルか。同じ穴のムジナか。

自分では、楽しいと思っていることをけなされた(認めてもらえなかった、賛同してもらえなかった)からといって、
自分を全否定されたわけではない。
なのに、このムッとする気分は何なのだろう?
おそらく・・・今、これを書きながら気付いたのだが、
わたしは、ブログ中毒に違いない。
中毒の結果、自分を救っているのだから、良い中毒、ということになる。
これは、「良い犯罪」「良い病気」「謙虚な見栄」みたいなものか。
(意味不明)

・・・

前から引っかかっていた、喉に突き刺さっている小骨が少し取れたような気がした。
自分の熱中していることをけなされて、ふくれっ面をしている子ども・・・
オモチャを取り上げられそうになったわけでもないのに、「つまらんことして、おもしろい?」と笑われたような、
そういう図であるようだ。
喉に突き刺さった小骨は、
「おかしいなあ、自己顕示欲はほとんどないはずなのになあ・・・でも、それぐらいしか、思い当たらないし・・・」
という、あまり納得できていない、すっきりしていない、もやもや感であったようだ。


・・・などなどと・・・
またまた大量の文字を入力して、喉の小骨を取る作業をした。
お経(念仏)になったり、祈りになったり、小骨取りだったり、カタチは変るが、
自分のブログは、今日も自分を救う。

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